昭和47年10月20日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
一生懸命に拝むそういう稽古ではない。おかげを受けると言う事。それは一生懸命お参りをする、お取次を頂いて一生懸命拝む。確かにそこに奇跡的なおかげも起る。だからおかげを頂く。信心の稽古というのは、それも稽古じゃない、というのではないですけれども。教祖様が、天地の親神様から、御依頼を受けられて、そして世の中の難儀な氏子を、取次ぎ助けてやってくれとおっしゃる、この助けて頂くという事は、そういう事ではない。拝んだり参ったり、そしておかげを頂くという稽古ではない。
どう言う所に信心の稽古というのは、置かなければならないかと言うと、その前の七十節を頂くと分かってくると思う。人間は万物の霊長であるから、万物を観て道理に合う信心をせねばならぬと、教えてある。人間は万物の霊長であるから、道理に合う信心。そういう信心が目当て、そういう信心が目指しでなければならない。そこで私共は万物の霊長であるから、万物を観て道理に合う信心という、万物を観るという事が、どういう事かと言うと、色々ありましょうけれども。天地日月の心です。万物。
言うなら、天地自然の働きだ。その御働きそのものをです、稽古の対象としてゆかなければならんのです。それが私は天地の親神様が、教祖金光大神に、信心しておかげを受けてくれよとお伝えになられたり、又は難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれという神頼みをなさったりしたのでございますが、そういう信心。例えば一生懸命参るとか、一生懸命に御祈念をするとかというのなら、私は百年前に出来た金光教以外の信心でも、宗教でも同じ事だと思う。一心不乱に拝む、一生懸命お参りをする。
それが信心のように思うておった。そういうどころではない。もうそれこそどこの何々様、ここの何々様というようにお参りをしたり致しますと、あの人は信心深い人じゃという風に言った。ですからそういう信心ではない。寧ろそういう信心は、万物の霊長として、道理を思うたらです。道理が分かったらおかしいのである。同じ一つの頼み事をするのでも、どこの仏様にも願うた。どこの神様にも頼んできたと。そういう事は、道理に合わない。芯というたら一つじゃと。
家を建てるのに棟梁が何人もおったら物事相談にくれてはかどらずと仰る。是は道理なんである。そこでやはり棟梁は一人でなからなければならない様に、仏様でも神様でも同じ事。どこの何々様ここの何々様というて、頼み散らかしておるという事ではです。そういう信心では、道理に合わない信心と言わなければならない。人間万物の霊長と言われる人間がです。言うならば動物の霊を拝んだりするという様な事もおかしな事ですね。そういうお金に不自由せんためには、ニイさんの信心。
蛇を祭った信心をすると、お金には不自由しないと言った様な、どんなに考えても人間万物の霊長としての、私共が手を合せて拝むというには、あまりにもおかしい。それが分かる。それでも、御利益さえあれば、何でも拝むと言う様な信心ではない。万物を観て道理に合う信心しておる為に、愈々却って窮屈になってしまうといった様な信心もおかしい。そこで私共は万物を観るという、天地自然の働きを、確かに見極めさせて頂きながら、その自然の働きそのものの中に、神様の心を知ろうとする。
心を分かろうとする。私は金光様の御信心とは、そういう事だと思う。ここに参って信心の稽古をしに来る、ここには。だから拝む稽古でもなからなければ、お参りをするという事だけが稽古ではなくて。折角稽古させて頂くその稽古の目当てというものはです。やっぱり私共は、確かに持っておかなければならんけれども、参ってはおるけれども、本当に、信心の稽古に通うて来ておると言うような、まぁ合楽の場合なんかは、皆さんがこうやって、それぞれ雑ノウかろうて来るように。
教典やら雑記帳やら、筆記道具迄も持って、みんながお参りになって、そしてそれを日々の御教を頂いて、それを書き留めてはそれを信心の稽古のそれになさる。ですから本当に、それを元にして日常生活が送られ出来なければ、只書き留めたり聞いたりして、詳しくなるという事だけでは、信心の稽古とは言えない。でないと夜夜中どういう事がないとも限らぬ。おかげはわが家で受けよと言う様な、まさかの時のおかげを頂かせてもらう事になってこない。まさかの時にうろたえ慌てるような、信心ではです。
常日頃しっかり信心の稽古をしておるとは、言えない訳です。それで万物を観て道理に合う信心。それを教祖様は、天地日月の心とこう、天地自然の働きそのものを、自分の心として行く生き方を教えられた。そこに、焦点を置かれて、一生懸命お参りもする。一生懸命御祈念もするという事にならなければならん訳です。しかもその信心は、難しいものではなくてです。子供がある者や日傭取りは、出て来る訳にはゆかぬ。病人があったりすれば捨てておいて参って来る事は出来ぬと。
ですからそれは病人でも放からかして参って来んならんとか、例えば仕事を休んでからでも、参って来なければならぬとか、というのではない。壮健な時しっかり信心の稽古をしておけ。ところがお互いの場合には、壮健な時は信心を疎かにして、さぁ何か苦しい事が起ってきたと言や、信心に熱心になると言った様な、反対の行き方で信心をしておるような人もある。そういう信心は教祖様が教えて下さる信心ではない。壮健な時に平穏無事な時に、何でもない時に、本気で信心の稽古をしておかねばならないという。
ここへ参って信心の稽古をしておけと。昨夜、前夜祭を終らせて頂いて、それから暫く休ませて頂いた。それで又起きて参りましてしとったら、色んな準備が万事出来終って、皆さんお夜食どもしとるところへ起きてきた。それからお広前に出て参りましたら、まぁだ放送室の方の電気が明々とついて、いろいろ仕事があっておりました。どうしたのかと聞かせて頂いたところが、どうしても、お広前関係の、マイクが都合よういかんという訳なんです。そこで私は考えさせられました。
それで私もそこの椅子に腰掛けさせて頂きながら、一生懸命されますけれども。一時になっても二時になっても、出来んのです。それで私は、文男先生がまだ起きておりましたから、文男先生に、「三時迄に、もし出来んならね、もう打ち切ってもらいなさい。三時迄に出来るようにお願いをさせて頂くから。」と言うて、私はそこから一生懸命御祈念をさせて頂いた。不思議な事と言うか私は電気の事はよく分かりませんけれども。例えば陰陽の二本の線が一つになって、つながらなければ交流しない。
つないでおるはずであっても、どこにか間違っておると交流をしない。それでは電気の用をなさない訳です。しかも玄人の方達が一生懸命やって、肝心要のどこもここも出来て、一番肝心要の今日の御大祭に、欠く事の出来ないところを担って、どっこい電気が交流しない。これは何かしらん、頭を、何かカチッと叩かれたような思いがします。もう昨夜から、この事を、お詫びばっかりさせて頂いておる。
そうしましたらおかげを頂いて、丁度私が三時半にここに出て参りますから、その時間の十四、五分位前にあれもも出来た、ここも出来たというおかげを頂いた。もう本当に、いよいよ、今日がお互い、五年間という間、一生懸命信心の稽古をさせて頂いた。その稽古をさせて頂いた。その信心の答案用紙を、今日は見るようなものである。どんなにお互いが信心の稽古をさせて頂いて、どんなにおかげ頂けたかという。例えば今日にならせて頂いて、そこが流通しない通らない交わない。
本当に五年間の信心を振り返ってみて、本当にお詫 びしなければならない事ばかり。昨日も申しましたように、ようやく、昨日からではありますけれども。この記念祭を迎えさせて頂く為の、お粗末御無礼という事のです。どんなに大きい事であったかという事を、痛感させて頂いて、私が親教会に日参させて頂いて、特別にお詫びのお届けをさせて貰うて、おかげを頂いておる。
昨夜も今朝迄もかかって、もう本当に何かしら、ギリギリというところでおかげを下さる。そこに私は私の信心と言うか合楽の信心の、まだ本当なものではない。もうギリギリのところでは、おかげを頂いてもです。ゆとりがない信心に。例えて申しますと五年祭を目指せて頂いてから始められた、ここの御造営の事でも、西脇殿造営の事でも、本当言うたら一月前に十分に出来ると業者も言い、幹部の皆さんも言うておられた。
仕事を休んでおる訳でもないのに、ようやく昨日、受け渡しが出来るだけに、最後の仕上げが出来るという。本当に記念祭の前日の十九日に、ようやく完了すると言った様な事。だからそれは、おかげの感じというものは一塩です。やっぱり神様ちゃ間違いがないなぁと、そういうものを感じます。昨日、文男先生と二人そこでどんなに言うても、兎に角神様のお働きには恐れ入ってしまうねと。だから私共がです。
そういうギリギリ的なおかげを頂かなければ、恐れ入らないと言うところに、合楽の信心の、まだ未熟さというものを感じる訳でございます。これでもか、これでもかと私共が言われなければ恐れ入らない。それを私共はです。神様ちゃ間違いないなぁ。もうギリギリでおかげを下さるという程に、私共の信心が怠慢であるという事はです。私は昨日初めて、分からせて頂いたような気がする。
そしてギリギリになって、一生懸命願うから、まあギリギリでおかげは下さるに致しましてもです。これはまちっと、怠慢無礼な信心から、本気で間違いのない本当の信心へ、ふんぎりをつけて行かなければならないなという様な事を感じる訳です。私がそれを感じると同時に、皆さんとても、やはり同じような事が言えるのではないかと思うのです。それがです、人間は万物の霊長であるから、万物を観て道理に合う信心というのは、言わば、起てくる出来事。自然に起てくるその事柄がです。
例えば昨日の電気なら電気が、どんなに見ても通じない原因が分からないと言うて、一生懸命何時間か時間をかけて、しかも玄人の人が見ていますけれども。もう何人もの電気工夫さんがここに上がって、何かガタガタやってます。それを見せて頂くにつけてです。もう身の縮むようなお詫びをさせて頂いた訳でございます。だから出来る出来んは仕方がない。だから三時迄お願いさせてもらうから、それ迄に出来んならもう仕様なか。もういよいよ神様に平身低頭お詫びするより他にないと思うて。
三時半になったら電気を全館消してしまうから。どうぞ三時で打ち切って下さいと、電気工夫さん達に申しました。ところがいろんな、原因が分からせて頂いて、もう十五分待って下さい、もう五分で上がりますという訳なんです。もう本当に時間ぎりぎりで、おかげ頂いたと。だから、これをおかげ頂いたというだけではなくて、そういう自然の働きをです。私が身の縮むような思いを、これは、五年間の信心の総仕上げとしてです。合楽の場合は、ギリギリのところでは、おかげを頂いておるけれども。
それはひと月前に、十分おかげを頂いておれれるはずのものがです。ギリギリ迄神様がおかげを下さってないという事にです。私共の信心の怠慢無礼と言った様なものをです。これでも分からんのか、これでも分からんのかと、神様が自然の働きを持って教えて下さってある。そしておかげを頂いた時に、初めて恐れ入りましたという訳なんです。それで今迄よかと思うておった。ううんそれゃちゃんと、おかげになるがち、最後の所はおかげになる事だけは、皆が確信しておった。
だからそういうおかげでは、非常に神様にご心配をかけ、不安な思いをさせなければならん。こちらの信心がもちっと、行き届かせて頂いてです、おかげを頂いたらこういう、ハラハラする様な思いをせんで済むと思うのです。そういう自然の働きをです、自分達の信心の上に頂かせて貰うという様な信心こそが、私は金光様の信心だと思うのです。拝むこと、参ること、そういう事が信心の稽古ではなくて、どこまでも人間万物の霊長としての自覚というものが出来て。
その自覚に立ち、しかも天地日月の心になること肝要と教えられる、天地の心を心として、その心を自分の心の信心の上にも頂いて行こう。そこで起きてくる全ての事柄という、自然に起きてくるその事柄、問題というものを通してです。反省するところは反省させてもらい、お礼の足りなかったところは、お礼を申させて貰うことに気付かせて頂いて、私は信心の稽古を進めて行くという、そういう生き方こそが、ここへ参って信心の稽古とは、そういう事だと思う。
しっかりここへ参って信心の稽古をしておけとおっしゃるのは、そういう事を通して信心の稽古をさせて頂く。神様がいつも生きてござる。生きた心で交う。言うなら今日の、その電気の線が、本当のものと本当なものとが、通わなければ、言うならば電気もつかない。いわば声になって出ても来ないということなんです。ですから私共と神様との、交流の接点のところをです。
私共は何かギリギリの時になって感じさせて頂くような、本当相すまん、その筈だ。おかげを頂けんはずだといったものを、悟らせてもろうて、ここにおかげを頂けん元があったと、お詫びが出けた時に、線がつながるような感じがするね。だからそれだけの信心に留まらずに、それこそ日々お礼を申させて頂いて、お詫びというよりも、お礼によってつながって行く信心。ゆとりのある信心。
言うならひと月前に、十分に出来るはずの御造営の事でもです。そのギリギリしかも本当の時間ギリギリにというところ迄。それ迄本当、ハラハラしなければならない。ハラハラするということがです、白真剣お詫びさせて頂かねばならん事の多いことに驚く事でございますけれども。そういう信心を、私はこの記念祭に脱却させて頂いて、少しはましな、少しはゆとりのあるおかげの頂ける信心に進ませて頂かなければならんと思うのでございます。
どうぞ。